デザイン思考で納得のいく引っ越し先を見つけるまでの実践記録
個人的な大きな決断へのデザイン思考の応用
人生にはいくつかの大きな決断が必要となる場面があります。その一つが、住む場所を選ぶ「引っ越し」ではないでしょうか。単に物理的な移動に留まらず、日々の生活、通勤、家族との時間、趣味、そして将来のライフスタイルに深く関わってくる選択です。
私自身、数年前に引っ越しを経験しました。その際、膨大な選択肢、家族それぞれの要望、そして限られた予算や時間を前に、どのように最適な場所を見つけたら良いのか、大きな迷いを感じました。不動産サイトを眺めたり、知人に相談したりしましたが、情報が断片的になりがちで、何が本当に重要なのかを見失いそうになることもありました。
この状況に直面したとき、私は日頃仕事で慣れ親しんでいるデザイン思考のフレームワークを、個人的な課題解決に適用してみることを思い立ちました。デザイン思考は、ユーザーの真のニーズを理解し、試行錯誤を通じて革新的な解決策を生み出すアプローチです。この思考法が、複雑で個人的な要素が絡む引っ越し先選びにも有効なのではないかと考えたのです。
「引っ越し先探し」から「理想の生活を叶える拠点探し」への転換:共感と問題定義の実践
デザイン思考の最初のステップは「共感」です。これは、解決すべき課題の中心にいる人々、つまり私の場合は「自分自身」と、共に住む「家族」のニーズや感情、潜在的な欲求を深く理解することから始まります。
具体的には、まず自分自身の内省を行いました。現在の住まいに不満な点は何か、理想のライフスタイルはどのようなものか、仕事や趣味、人間関係において住む場所に何を求めているのか、といった点をノートに書き出しました。過去の引っ越し経験も振り返り、どのような要素が満足度を高め、あるいは低下させたのかを分析しました。
次に、家族との対話の時間を持ちました。それぞれのメンバーが新しい住まいに何を期待しているのか、譲れない条件は何か、どのような環境ならより快適に過ごせるのか、といった点を丁寧に聞き取りました。このプロセスは、単に希望条件をリストアップするのではなく、なぜその条件が必要なのか、その背後にある感情や価値観を理解することに重点を置きました。例えば、「広いリビング」を求める背景には、「家族みんなでゆったり過ごしたい」という願望があったり、「駅からの近さ」には「通勤負担を減らして自由な時間を増やしたい」という目的があったりします。
この「共感」のフェーズを経て、次の「問題定義」に進みました。ここで明らかになったのは、私たちの課題は単に「住む場所を探す」ことではなく、「家族それぞれのニーズを満たし、かつ理想とするライフスタイルを実現するための『最適な拠点』を見つけること」であるという点でした。より具体的には、「限られた予算内で、通勤・通学の利便性と、子育てや趣味に必要な周辺環境、そして家族が心地よく過ごせる住空間という、複数のトレードオフをどう最適にバランスさせるか」という問いとして課題を再定義しました。
この段階では、パーソナルペルソナ(理想の自分像や家族像)や、カスタマージャーニーマップの応用(新しい住居での一日や一週間を想像し、どのような体験をしたいかを描く)といったフレームワークが、抽象的な願望を具体的なニーズに落とし込むのに役立ちました。
多様な可能性を探り、絞り込む:アイデア創出の実践
課題が明確になったら、次は解決策、すなわち引っ越し先の候補を「アイデア」として発想するフェーズです。ここでは、定義した課題(理想の生活像とそれに必要な条件)を満たす可能性のある場所や物件のタイプを、できるだけ広く洗い出すことに注力しました。
情報収集のチャネルは、従来の不動産サイトに留まらず、地域のコミュニティ情報、知人・友人からの口コミ、自治体のウェブサイト、実際にそのエリアを歩いてみるなど、多角的に行いました。発想法としては、ブレインストーミングの個人版として、条件リストを眺めながら連想ゲームのように候補エリアや物件タイプを書き出していくことを試みました。「もし予算が〇〇円アップしたら?」「もし通勤時間が〇〇分延びても良いなら?」といった極端な問いを立ててみることで、普段は考えつかないような選択肢も見えてきました。
この段階では、すぐに「これは無理だ」と判断せず、可能性のあるものを全てリストアップすることが重要です。リストには、具体的な地名、最寄駅、物件の種類(マンション、一戸建て、賃貸、購入)、さらには「二世帯住宅」「ルームシェア」といった形態まで含まれていました。
次に、洗い出した多数の「アイデア」を絞り込んでいきます。ここでは、問題定義フェーズで明確になった「理想の生活」という基準に照らし合わせ、それぞれの候補がどの程度、私たちのニーズを満たしているかを評価しました。通勤時間、家賃(住宅ローン)、広さ、間取り、周辺環境(学校、スーパー、病院、公園など)、そして家族それぞれの「これは譲れない」という条件などを考慮し、優先順位付けを行いました。
この絞り込みプロセスでは、すべての条件を完璧に満たす「唯一絶対の正解」はないことを前提とし、それぞれの候補のメリット・デメリットを比較検討しました。特に、複数のトレードオフがある中で、家族が最も納得できるバランス点を見つけるための議論が重要でした。
計画を立て、現実を知る:プロトタイプ作成とテストの実践
絞り込んだ数個の有望な候補(アイデア)を、次の「プロトタイプ」として具体的な検証の対象としました。引っ越しにおけるプロトタイプとは、候補となる物件やエリアを実際に体験してみることです。
私たちのプロトタイプ作成は、まずオンラインでの詳細な情報収集から始まりました。候補物件の間取り図を詳細に見る、周辺の航空写真をチェックする、Googleストリートビューで街の雰囲気を確認するといったことです。これにより、リストアップされた物件の中から、実際に内見する価値のあるものを数件に絞り込みました。
次に、「テスト」として、実際に現地に足を運び、内見を行いました。内見は単に物件の間取りや設備を確認するだけでなく、その物件がある街全体を体験する機会と捉えました。最寄駅から物件までの道のりを歩いてみる、時間帯を変えて駅周辺やスーパーマーケットの混雑状況を確認する、子供が遊べる公園や通学路の安全性をチェックするといったことです。
内見時には、問題定義フェーズでリストアップした「これは譲れない条件」「理想の生活に必要な要素」をチェックリスト化し、それぞれのプロトタイプ(候補物件)がそれらをどの程度満たしているかを具体的に評価しました。また、実際にその空間に立ったときに感じる「雰囲気」や、担当者との会話から得られる情報も重要な要素でした。
この「テスト」のプロセスでは、計画通りに進まないことや、予期せぬ発見が多々ありました。写真で見た印象と異なったり、思ってもみなかった騒音があったり、逆に写真では伝わらなかった街の魅力に気づいたりすることもありました。これらの現実的な情報を得られたことで、机上での検討だけでは見えなかった側面が明らかになり、より現実に基づいた判断ができるようになりました。
実践を通じた結果と学び
デザイン思考のプロセスを経て、私たちは最終的に一つの引っ越し先を決定することができました。このプロセスを通じて得られた最大の成果は、単に物件を見つけたこと以上に、なぜその場所を選んだのか、その選択が私たちの「理想の生活」にどのように繋がるのかを、家族全員が共通認識として持つことができた点です。
特に、最初の「共感」と「問題定義」のフェーズに時間をかけたことが、後々のブレや迷いを減らす上で非常に有効でした。自分たちが本当に大切にしている価値観や、解決すべき真の課題を明確にしたことで、数多くの選択肢の中からブレずに判断軸を持つことができました。
「アイデア創出」フェーズでの広範囲な情報収集と、「プロトタイプ」「テスト」フェーズでの現実的な検証は、可能性を狭めずに検討し、かつ机上の空論ではない、地に足の着いた意思決定を可能にしました。うまくいかなかった点としては、テストの段階で、もっと多くの候補を並行して検討できれば、比較検討がより深まったかもしれないと感じています。また、交渉など、デザイン思考のフレームワークだけではカバーしきれない側面もありました。
しかし全体として、デザイン思考のプロセスは、個人的な、かつ感情や多様な要素が絡む複雑な意思決定においても、体系的なアプローチを提供してくれることを実感しました。特に、ユーザー(自分や家族)の視点を中心に据え、試行錯誤を前提とする姿勢は、一方的な情報収集や、衝動的な決断を防ぐ上で非常に有効でした。
結論:個人的な課題解決におけるデザイン思考の価値
引っ越し先選びという個人的な大きな課題にデザイン思考を適用した今回の経験は、この思考法がビジネスシーンだけでなく、私たちの日常的な悩みや目標に対しても強力なツールとなりうることを示唆しています。
デザイン思考は、正解があらかじめ定まっている課題よりも、何が最適な解決策か不明瞭な、いわゆる「厄介な問題(wicked problem)」に対して特に有効です。個人的な悩みや目標も、多くの場合このような性質を持っています。
今回の引っ越し先選びのように、自分の内面や身近な人々のニーズを深く理解することから始め、既成概念にとらわれずに多様な可能性を探り、そして小さく試しながら検証していくプロセスは、納得のいく意思決定を導くための有効な手段となり得ます。
もしあなたが今、キャリア、人間関係、健康、学習など、何かしらの個人的な課題に直面し、どのように取り組んだら良いか迷っているのであれば、一度デザイン思考のフレームワークを適用してみることを検討されてはいかがでしょうか。まずは「なぜこの課題に取り組みたいのか」「本当は何を求めているのか」という自分自身への「共感」から始めてみることが、次の一歩を踏み出すヒントになるかもしれません。